こんにちは、神社と日本の神話の月影です。
鹿島神宮の歴史を調べ始めたとき、私がずっと気になっていたことがあります。それは、なぜ関東の東の端にある鹿島神宮が、神武天皇元年創建という由緒を持ち、古くから「神宮」と呼ばれるほど重要な神社になったのか、ということです。
古代日本の政治の中心は畿内にあったはず。それなのに鹿島神宮は奈良・平安時代には朝廷から篤く崇敬され、藤原氏や源頼朝、徳川家とも深く関わってきました。ここには単に「古い神社だから」というだけでは説明できない歴史があります。
ただし、鹿島神宮の歴史を知るうえで大切なのが、神社に伝わる創建伝承と、文献や考古学から確認できる歴史を分けて考えることです。神武天皇元年という年代も、要石をめぐる古代信仰も、すべてを同じ確度の史実として扱うことはできません。
鹿島神宮の歴史を見るポイント
「神武天皇元年の創建伝承」「古代祭祀の痕跡」「奈良・平安時代の国家祭祀」「武家からの崇敬」を時代ごとに見ていくと、鹿島神宮がなぜ特別な存在になったのかが見えてきます。
鹿島神宮の創建はいつなのか
鹿島神宮の創建年について調べると、「神武天皇元年」「紀元前660年」「2600年以上の歴史」といった説明を目にします。まずは、この年代が何を意味しているのかを確認しておきましょう。
社伝では神武天皇元年創建
鹿島神宮の公式由緒では、創建は初代神武天皇の時代までさかのぼると伝えられています。
神武天皇が東征の途中で熊野において危機に陥った際、武甕槌大神の神剣「韴霊剣」の神威によって救われたため、その神恩に感謝し、即位した年に鹿島の地へ武甕槌大神を勅祭したという由緒です。
つまり、鹿島神宮でいう「神武天皇元年創建」とは、神武天皇の即位と武甕槌大神への感謝を結びつけた神社の創建伝承なんですね。
この伝承は鹿島神宮にとって非常に大切な由緒です。一方で、神武天皇の時代を現在の西暦年代とそのまま対応させて、現代と同じ形の神社が紀元前7世紀に存在したと証明されたわけではありません。
(出典:鹿島神宮「御由緒・御祭神」)
創建年と確認できる歴史は別
古い神社を調べるとき、「創建年」という言葉には注意が必要です。
現在の学校教育で使われる年代のように、当時の記録から「この年に神社を建てた」と確認できる場合もあれば、後世にまとめられた社伝によって創建年代が伝えられている場合もあります。鹿島神宮の神武天皇元年は後者として考えるのが適切でしょう。
鹿島神宮公式も「勅祭されたと伝えられています」としています。伝承そのものを否定する必要はありませんが、「伝えられている年代」と「史料で確認できる年代」は同じではないということです。
この違いは鹿島神宮に限った話ではありません。日本各地の古社では、神話上の神々の時代、歴代天皇の時代、考古学的な祭祀の痕跡、文献に初めて現れる年代が一致しないケースがあります。
「鹿島神宮は日本最古なのか」という疑問については、日本最古とされる神社の古さを考える記事でも、社伝と歴史資料を分けて紹介しています。
2600年の歴史とは何を指すのか
鹿島神宮について「2600年以上の歴史を持つ」と表現されることがあります。これは神武天皇即位を皇紀元年とする伝統的な年代観から数えたものです。
現在一般に用いられる皇紀では、西暦に660を加えた数字になるため、2026年は皇紀2686年にあたります。そのため、神武天皇元年創建という社伝を基準にすれば「2600年以上」という説明になるわけです。
ただ、この数字をそのまま「考古学によって2686年前の神社建築が確認された」という意味で受け取るのは違います。
鹿島神宮の「2600年以上」という数字は、神社の由緒を理解するうえでは意味があります。ただ、歴史を深く見るなら「社伝では神武天皇元年」「考古学では古墳時代の祭祀痕跡が確認される」「文献では奈良時代には重要な神社として現れる」と分けると、かなり見え方が変わりますよ。
鹿島神宮の古代のルーツ
では、歴史資料からたどれる鹿島神宮の古さはどこまでさかのぼるのでしょうか。ここで注目したいのが、鹿島周辺から見つかっている古代の祭祀遺物です。
5世紀頃には祭祀が行われていた
鹿島神宮の境内やその周辺では、古墳時代にあたる5世紀頃の祭祀に関係すると考えられる遺物が確認されています。
剣や鏡などを石で表した石製模造品や勾玉などで、畿内のヤマト王権と関係する地域で見つかるものとの共通点も指摘されています。
これはかなり興味深い話です。なぜなら、神武天皇元年という年代そのものを証明する資料ではないものの、鹿島周辺が少なくとも古墳時代には重要な祭祀の場所になっていた可能性を考える材料になるからです。
さらに、東国へ向かう沿岸部では似た性格を持つ祭祀遺跡が確認されています。鹿島は単独で存在していた聖地というより、ヤマト王権が東国へ関わっていく流れの中で重要性を増した場所として見ることができます。
奈良時代の常陸国風土記に登場
8世紀に編纂された『常陸国風土記』には、鹿島の地域と神を祀る場所について記述があります。
ここで重要なのは、現在の社殿配置がそのまま記録されているわけではないことです。当時の鹿島では、天の大神を祀る社と坂戸社、沼尾社などが信仰圏を形づくっていたと考えられています。
古代の神社は、現在のように大きな本殿や拝殿が最初から整っていたとは限りません。森、岩、水辺、山など神聖視された場所で祭祀を行い、時代とともに社殿や祭祀制度が整えられていった神社もあります。
鹿島神宮についても「創建された瞬間に現在の姿が完成した」と考えるのではなく、古い祭祀の場が長い時間をかけて国家的な神社へ発展していったと見ると分かりやすいかなと思います。

要石は縄文時代からあるのか
鹿島神宮のルーツを考えるとき、要石の存在も気になります。
古い巨石信仰や磐座信仰が先に存在し、それが後の鹿島信仰につながったのではないか、という見方をする研究者や論者もいます。私も要石を見ると、「社殿が建てられる前から、この石そのものが信仰されていたのでは」と考えたくなります。
ただし、ここは慎重に見なければなりません。鹿島神宮の要石が縄文時代から現在まで連続して信仰され、それが直接鹿島神宮になったと確認できる資料は見つかっていません。
鹿島周辺に縄文時代から人々が暮らしていたことと、現在の要石信仰が縄文時代から途切れず続いていることは別の話です。
要石について歴史や大鯰伝説まで詳しく知りたい方は、鹿島神宮の要石と地震・大鯰伝説もあわせてご覧ください。
要石の古さについて
「古代から存在する石」と「古代から同じ意味で信仰されていた石」は同じではありません。巨石信仰との関係は魅力のあるテーマですが、伝承・仮説・確認できる史実を分けて読む必要があります。
なぜ東国の鹿島は格式が高いのか
鹿島神宮の歴史で最大の疑問ともいえるのが、なぜ都から遠い東国の鹿島がこれほど重要視されたのか、という点です。ここには古代国家の東国進出が関係しています。
政治の中心が鹿島だったわけではない
まず押さえておきたいのは、古代日本の政治の中心が鹿島や香取にあったわけではないということです。
ヤマト王権の中心は畿内にあり、奈良時代には平城京、平安時代には平安京が政治の中心となりました。鹿島が日本全体を統治していたという歴史ではありません。
むしろ鹿島の重要性は、中央の王権から見て東国へ向かう重要な位置にあったことにあります。
4~5世紀頃、ヤマト王権の影響が東日本へ広がっていく中で、房総から鹿島、さらに北へ向かう地域には祭祀や政治に関係する痕跡が残されました。鹿島は東国の奥へ進むための境界に近い場所だったと考えると、その特別さが見えてきます。
私は以前、「鹿島や香取が古代日本の政治の中心だったのかな」と疑問に思っていました。でも資料を追っていくと、むしろ逆なんです。都から遠い東の地域だったからこそ、朝廷にとって鹿島と香取の神々を祀る意味が大きかった、と考えるほうが歴史の流れに合います。
鹿島郡は特別な神郡だった
古代の鹿島郡は「神郡」とされていました。
神郡とは、有力な神社の祭祀や維持を支えるために特別に設けられた郡です。鹿島郡のほか、伊勢神宮に関係する地域や香取神宮のある香取郡など、全国でも限られた地域しかありませんでした。
鹿島神宮の南側では古代の郡役所である鹿島郡家の跡も発掘され、『常陸国風土記』の記述と遺跡の位置が対応することが確認されています。
つまり古代の鹿島では、神を祀る場所だけが孤立して存在していたわけではありません。祭祀を支える土地、行政組織、人々の暮らしまで含めた地域社会が形成されていました。
平安時代には神宮と記された
鹿島神宮の格式を語るうえで欠かせないのが、平安時代にまとめられた『延喜式』です。
『延喜式神名帳』には鹿島神宮が記され、名神大社として扱われました。さらに注目されるのが、当時「神宮」という社号で記された神社が極めて限られていたことです。
一般に『延喜式神名帳』では、伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮の三社が「神宮」と記されたことで知られています。
だからといって「神宮という名前を後から褒美としてもらった」と単純に考えるのは少し違います。少なくとも平安時代の国家祭祀の世界で、鹿島と香取が東国を代表する特別な神社として扱われていたことを示す材料と見るのがよいでしょう。
鹿島神宮と香取神宮、息栖神社のつながりについては、東国三社と三社の関係でも紹介しています。
鹿島神宮と藤原氏の関係
鹿島神宮が東国だけにとどまらない存在になった背景には、奈良の春日信仰と藤原氏との関係があります。ここで武甕槌大神は、都の有力氏族の信仰とも結びついていきました。
武甕槌命は鹿島から春日へ
春日大社の公式由緒では、奈良時代の初め、平城京を守護するために鹿島から武甕槌命を御蓋山へ迎えたと伝えています。
その後、神護景雲2年(768年)、称徳天皇の勅命を受け、左大臣藤原永手らによって現在地に神殿が造営されました。
春日大社では、鹿島から武甕槌命、香取から経津主命、枚岡神社から藤原氏の祖神とされる天児屋根命と比売神を迎え、四柱を祀っています。
鹿島神宮の神が、奈良の都において藤原氏の氏神信仰の中へ取り込まれていったわけです。
(出典:春日大社「御本社(大宮)回廊内」)

藤原氏の隆盛と鹿島信仰
藤原氏は奈良時代から平安時代にかけて政治の中心で大きな影響力を持つようになります。その氏神として春日社が発展したことで、そこに祀られる武甕槌命の本源の地である鹿島も特別な意味を持つようになりました。
茨城県に伝わる鹿島神宮文書についても、鹿島神宮が香取神宮とともに藤原氏から篤い崇敬を受け、摂関家の隆盛とともに発展したことが紹介されています。
ここから見えるのは、鹿島神宮が「東国の地方神社」だけでは説明できない存在だったことです。
東国の祭祀拠点でありながら、春日大社を通じて奈良や京都の貴族社会にもつながっていた。この二つの顔を持っていたことが、鹿島神宮の歴史を面白くしています。
春日大社と鹿島のつながりについては、春日大社と鹿島神宮の歴史的な関係でも触れています。
天皇と鹿島神宮の歴史
鹿島神宮と皇室との関係は、創建伝承に登場する神武天皇だけではありません。奈良・平安時代以降も朝廷祭祀との関係が続いていきます。
奈良・平安時代の奉幣
鹿島神宮の公式由緒では、奈良・平安時代になると国の守護神として崇敬され、朝廷から奉幣使がたびたび派遣されたとされています。
奉幣とは、天皇や朝廷から神社へ幣帛を奉ることです。すべての神社に同じように行われたわけではなく、国家にとって重要とされた神々への祭祀として行われました。
鹿島神宮が『延喜式』で名神大社とされたことや、鹿島郡が神郡として神宮を支えていたことを合わせて見ると、古代国家の祭祀制度の中で鹿島がかなり重要な位置にあったことが分かります。
現在にも勅祭が受け継がれる
皇室との関係は過去だけのものではありません。
鹿島神宮では毎年9月1日に例祭が行われ、そのうち6年に一度は天皇の使いである勅使が参向する勅祭となります。さらに12年に一度の午年には御船祭が斎行されます。
古代と現代の制度をそのまま同一視することはできませんが、朝廷との関係を持ってきた鹿島神宮の歴史が、祭礼の形として現代にも受け継がれている例といえるでしょう。
源頼朝と鹿島神宮の関係
平安時代までの鹿島神宮では朝廷や藤原氏との関係が目立ちますが、武士の時代になると新たな担い手が現れます。その代表が源頼朝と鎌倉幕府です。
頼朝は鹿島神宮へ土地を寄進
養和元年(1181年)、源頼朝は常陸国内の世谷、大窪、塩浜郷などを鹿島神宮へ寄進したことが伝えられています。
頼朝が関東の武士をまとめながら勢力を広げていた時期です。鹿島神宮への寄進には神宮への崇敬だけでなく、新たに支配下へ入った地域を安定させる政治的な意味もあったと考えられています。
鹿島神宮は、朝廷や貴族との関係を持つ神社である一方、東国に大きな祭祀基盤を持っていました。鎌倉を中心に新たな武家政権を築こうとする頼朝にとっても、無視できない存在だったのでしょう。
神馬奉納と鹿島神宮文書
『吾妻鏡』には、建久2年(1191年)、鹿島社が大地震のように鳴動したという知らせを受けた頼朝が、鹿島政幹を派遣して神馬を奉納したことが記されています。
鹿島神宮には頼朝が奉納したと伝わる「梅竹蒔絵鞍」も残されています。
さらに、鹿島神宮に伝わる古文書群では元暦2年(1185年)の源頼朝下文が最古とされています。こうした史料からは、源頼朝と鹿島神宮の関係が単なる後世の武将伝説ではなく、鎌倉時代の文書によってもたどれることが分かります。
その後も鎌倉幕府は、将軍の病気平癒や蒙古襲来に際する祈祷など、重要な局面で鹿島神宮と関わりました。
武神としての鹿島神宮
御祭神の武甕槌大神は国譲り神話で重要な役割を担い、刀剣とも深く結びつく神です。武家社会になると、その神格が武士の信仰と結びつき、鹿島神宮は武神を祀る神社としてさらに広く知られていきました。
徳川家が残した現在の鹿島神宮
現在の鹿島神宮を歩いていると、古代の神社を見ているような感覚になります。しかし、目の前に建つ主要な社殿の多くは江戸時代初期に徳川家によって奉納されたものです。
徳川家康が奉納した奥宮
鹿島神宮の奥参道を進むと、森の中に奥宮が現れます。
この奥宮の社殿は、もともと慶長10年(1605年)に徳川家康が鹿島神宮の本殿として奉納した建物です。
現在は奥宮として鎮座していますが、最初から奥宮用に造られたわけではありません。後に新しい本殿が造営されたため、それまでの本殿が現在地へ移されました。
つまり、奥宮は徳川家康の時代に鹿島神宮の中心社殿だった建物ということになります。

現在の本殿は徳川秀忠の造営
現在の本殿・石の間・幣殿・拝殿は元和5年(1619年)、江戸幕府2代将軍徳川秀忠によって奉納されました。
家康が奉納した本殿からわずか十数年後に、さらに大きな造営が行われたことになります。それだけ徳川家にとって鹿島神宮が重要な神社だったことがうかがえます。
本殿は三間社流造で、本殿、石の間、幣殿、拝殿は現在、国の重要文化財となっています。
鹿島神宮の「創建」は神武天皇元年までさかのぼる伝承を持ちますが、今私たちが目にする社殿の年代は創建年代とはまったく別です。この区別も、古社の歴史を見るときには大切ですね。
楼門は徳川頼房の奉納
鹿島神宮を象徴する朱色の楼門は、寛永11年(1634年)に水戸藩初代藩主の徳川頼房によって奉納されました。
家康、秀忠、頼房と、徳川一門による造営が続いたことで、現在の鹿島神宮を代表する景観が形づくられていきます。
古代から信仰されてきた神社に、江戸時代の徳川家が大規模な建築を残している。この重なりを見ると、鹿島神宮の歴史が一つの時代だけではできていないことを実感できます。

鹿島神宮の歴史を時代順に見る
ここまでの流れを年代順に見ると、鹿島神宮は「2600年前に完成して、そのまま現在まで残った神社」ではないことがよく分かります。祭祀、国家制度、貴族、武士、幕府と関わりながら姿を変えてきました。
| 時代 | 鹿島神宮に関する主な出来事 |
|---|---|
| 神話・社伝上 | 神武天皇が武甕槌大神の神恩に感謝し、即位元年に鹿島の地へ勅祭したと伝わる |
| 5世紀頃 | 鹿島周辺で祭祀に使われたと考えられる石製模造品などが確認される |
| 7~8世紀 | 鹿島の祭祀拠点が国家制度との関係を深め、鹿島郡は神郡となる |
| 奈良時代 | 『常陸国風土記』に鹿島の神と祭祀に関する記述が残る |
| 768年 | 春日大社創建。鹿島から武甕槌命が迎えられ、藤原氏の氏神信仰と結びつく |
| 平安時代 | 『延喜式神名帳』に鹿島神宮が名神大社として記される |
| 1181年 | 源頼朝が鹿島神宮へ所領を寄進 |
| 1185年 | 現存する鹿島神宮文書のうち最古とされる源頼朝下文 |
| 1191年 | 『吾妻鏡』に頼朝による神馬奉納の記事 |
| 1605年 | 徳川家康が本殿を奉納。後に現在の奥宮となる |
| 1619年 | 徳川秀忠が現在の本殿・石の間・幣殿・拝殿を奉納 |
| 1634年 | 徳川頼房が楼門を奉納 |
| 現代 | 例祭、勅祭、御船祭などが受け継がれている |
鹿島神宮は日本最古なのか
鹿島神宮の創建年を調べる人の中には、「それなら鹿島神宮は日本最古の神社なの?」と感じる人もいると思います。
日本最古と断定するのは難しい
社伝上の年代だけを比較すれば、鹿島神宮は非常に古い創建伝承を持つ神社です。
しかし、大神神社、諏訪大社、出雲大社、伊勢神宮、住吉大社など、日本には明確な創建年そのものを設定しにくい古社も数多くあります。
そもそも初期の神社祭祀では、現在のような社殿が存在しなかった可能性もあります。そのため「建物ができた年」「祭祀が始まった年」「文献に現れる年」「社伝上の創建年」のどれを基準にするかで答えが変わってしまいます。
ですから鹿島神宮については、日本最古と断定するより、非常に古い祭祀の歴史と創建伝承を持つ古社の一つと捉えるほうが実態に近いでしょう。
古さ以上に注目したい歴史
鹿島神宮の魅力は、単純に「何年前からあるか」という数字だけではありません。
古墳時代の祭祀、ヤマト王権の東国進出、神郡、奈良時代の記録、平安時代の国家祭祀、春日大社と藤原氏、鎌倉幕府、徳川家と、時代の節目ごとに日本史の大きな動きと接点を持っています。
関東の東端にある一つの神社を追っているはずなのに、気づけば奈良、京都、鎌倉、江戸へと話がつながっていくんです。
あなたは鹿島神宮の「古さ」と「日本史とのつながり」、どちらにより魅力を感じるでしょうか。私は歴史を調べるほど、創建年代そのものより、このつながりの広さに驚かされます。
鹿島神宮の歴史が残る境内
鹿島神宮の歴史は文献だけでなく、現在の境内を歩くことでも感じられます。建物や石、森を時代と結びつけて見ると、境内の印象もかなり変わります。
奥宮で徳川家康の時代を見る
奥宮は深い森の中にひっそりと建っていますが、その建物が1605年に家康によって奉納された旧本殿だと知ると見え方が変わります。
現在の本殿よりも前の時代、ここが鹿島神宮の中心社殿だったわけです。単なる「境内の奥にある小さなお社」ではなく、江戸時代初期の鹿島神宮そのものを伝える建築といえます。
要石には別系統の歴史がある
要石は社殿建築とは違い、自然石そのものをめぐる信仰です。
現在広く知られる「地下の大鯰を武甕槌大神が押さえている」という伝説は、鹿島信仰と地震を結びつける象徴になりました。特に安政2年(1855年)の安政江戸地震後には、鹿島の神が鯰を押さえる「鯰絵」が江戸で流行しています。
古代の創建伝承、江戸時代の地震信仰、現代の参拝が一つの石の周囲に重なっているのが要石です。

楼門から奥参道まで歩いてみる
鹿島神宮では、一つの時代だけを見るのではなく、境内全体を歴史の流れとして歩いてみるのがおすすめです。
徳川頼房奉納の楼門をくぐり、秀忠奉納の社殿を参拝し、杉の巨木が続く奥参道を進み、家康奉納の奥宮へ。その先には要石があります。
建築年代が分かるものと、起源を一つの年代に決められない信仰対象が同じ境内に共存している。これこそ鹿島神宮らしいところかもしれません。
鹿島神宮の歴史に関するよくある質問(FAQ)
鹿島神宮はいつ創建されたのですか?
鹿島神宮では、神武天皇が即位した皇紀元年に武甕槌大神を鹿島の地へ勅祭したと伝えています。ただし、これは神社に伝わる創建由緒です。現在の歴史研究で紀元前660年に社殿が建てられたことまで確認されているわけではありません。
鹿島神宮には本当に2600年以上の歴史がありますか?
神武天皇元年創建という社伝を基準に数えれば2600年以上となります。一方、考古学では鹿島周辺から5世紀頃の祭祀遺物が確認され、文献では奈良時代には重要な祭祀の場として登場します。「2600年以上」は社伝上の年代であることを理解しておくとよいでしょう。
なぜ鹿島神宮は関東にあるのに格式が高いのですか?
古代の鹿島はヤマト王権が東国や東北方面へ関わっていくうえで重要な地域にありました。鹿島郡は神郡とされ、平安時代の『延喜式神名帳』でも鹿島神宮は名神大社として記載されています。政治の中心が鹿島だったわけではなく、東国の重要な祭祀拠点だったと考えると分かりやすいです。
鹿島神宮と藤原氏にはどんな関係がありますか?
奈良の春日大社では鹿島から武甕槌命を迎えたと伝えられています。768年には藤原永手らによって現在地に神殿が造営され、武甕槌命は春日の神々の一柱として藤原氏の氏神信仰と深く結びつきました。
要石は縄文時代から信仰されていたのですか?
鹿島周辺には古い時代から人々の生活や祭祀の痕跡がありますが、現在の要石が縄文時代から同じ意味で連続して信仰されていたと確認できる資料はありません。巨石信仰や磐座との関係を考える説はありますが、確定した歴史とは分けて考える必要があります。
まとめ:鹿島神宮の歴史
鹿島神宮の歴史をたどると、神武天皇元年という創建伝承だけでは見えてこない、長い時間の積み重なりがあります。
鹿島神宮は、神話だけの神社でも、武将だけの神社でもありません。古代祭祀、朝廷、藤原氏、鎌倉幕府、徳川家、そして要石のような民間信仰まで、異なる時代の歴史が幾重にも重なっています。
「なぜ関東の東端に、これほど重要な神宮があるのか」という疑問から歴史をたどってみると、その答えは「鹿島が日本の中心だったから」ではなく、都から見た東国の重要な祭祀拠点であり、時代ごとの権力や信仰と結びつきながら発展してきたからだと見えてきます。
そして、神武天皇元年という社伝と、5世紀頃の祭祀遺物、奈良・平安時代の文献、鎌倉時代の古文書、江戸時代の社殿を一つずつ見ていくことこそ、鹿島神宮の本当の面白さなのかなと思います。
鹿島神宮での参拝があなたにとって心安らかなものとなりますように♪