こんにちは。神社と日本の伝統文化、運営者の「月影」です。
日本史の授業や神社の由緒書きなどで四大節という言葉を目にして、これはいったい何だろうと疑問に思ったことはありませんか。
読み方が難しかったり、具体的にいつのことを指すのか分からなかったりと、少し複雑に感じるかもしれませんね。
また、テスト勉強のために覚え方や語呂合わせを探している学生さんもいるでしょう。
実はこの四大節、明治や大正といった戦前の歴史だけでなく、私たちが現在休んでいる祝日とも深い関わりがあるのです。
四大節の意味や読み方と簡単な覚え方

まずは、四大節という言葉の基本的な意味や、それぞれの祝日が持つ特徴について見ていきましょう。
漢字だけ見ると少し難しそうに感じるかもしれませんが、整理してみると意外とシンプルなんです。
ここでは、正しい読み方や日付、そして試験対策にも使える覚え方まで、基礎知識を分かりやすく解説しますね。
四大節の正しい読み方と定義
最初に一番大切な読み方から確認しておきましょう。「四大節」と書いて、「しだいせつ」と読みます。音読みで「よんだいせつ」と読んでしまいそうになりますが、正しい読み方は「しだいせつ」ですので、ここでしっかりと覚えておいてくださいね。
四大節とは、戦前の日本(大日本帝国憲法下)において、特に重要視されていた4つの祝祭日の総称です。具体的には以下の4つを指します。
- 四方拝(しほうはい):1月1日
- 紀元節(きげんせつ):2月11日
- 天長節(てんちょうせつ):天皇誕生日
- 明治節(めいじせつ):11月3日
これらは、現代の「ハッピーマンデー」のような単なる休日とは性質が全く異なります。
宮中(皇室)での重要な祭祀と連動し、学校や役所、軍隊において厳格な式典が執り行われる、まさに国家の背骨とも言える特別な日でした。
特に重要なのは、これらの日が「皇室の祖先神や歴代天皇」と国民を結びつける役割を果たしていた点です。
小学校では、校長先生が教育勅語を奉読し、生徒全員でそれぞれの祝日に合わせた唱歌(「雲に聳ゆる高千穂の…」など)を斉唱しました。
また、紅白のお饅頭が配られることもあり、子供たちにとっては厳粛でありながらも楽しみなイベントでもあったようです。
現代の感覚で言えば、「お正月」と「建国記念日」と「天皇誕生日」がすべて同じくらいの重みを持って、国を挙げて祝われていたとイメージすると分かりやすいかもしれません。
四大節はいつ?現在の日付は?

「昔の祝日なんて、今の私たちには関係ないのでは?」と思う方もいるかもしれません。
でも実は、四大節の日付の多くは、現在の「国民の祝日」として形を変えて受け継がれているんです。
昔と今を比べてみると、そのつながりがよく分かります。
| 名称 | 日付 | 当時の趣旨 | 現在の祝日 |
|---|---|---|---|
| 四方拝 | 1月1日 | 天皇が天地四方を拝する | 元日 |
| 紀元節 | 2月11日 | 神武天皇即位の日 | 建国記念の日 |
| 天長節 | 4月29日※ | 天皇誕生日 | 昭和の日 |
| 明治節 | 11月3日 | 明治天皇の誕生日 | 文化の日 |
※表中の天長節は昭和時代の日付を例としています。
こうして見ると、今のカレンダーにある祝日のルーツが四大節にあることがよく分かりますね。
特に11月3日の「文化の日」が、かつては「明治節」だったというのは、意外と知られていない事実かもしれません。
また、2月11日の「建国記念の日」も、かつての「紀元節」が一度廃止されたのち、名称を変えて復活したものです。
ここで注目したいのは、単に日付が同じというだけでなく、その日が持つ「季節感」や「国民の記憶」も引き継がれているという点です。
例えば、11月3日は統計的に見ても「晴れの特異日」として知られ、明治神宮では例祭が行われ、多くの人々が参拝に訪れます。
法律上の名称が変わっても、人々がその日に抱く「おめでたい日」「晴れやかな日」という感覚は、世代を超えて共有され続けているのかもしれませんね。
祝日と祭日の違いから学ぶ四大節

現代ではすべてひっくるめて「国民の祝日」と呼んでいますが、戦前の日本では「祝日(しゅくじつ)」と「祭日(さいじつ)」は明確に区別されていました。
ここも理解しておくと、歴史の解像度がグッと上がりますよ。
祝日と祭日の違い
- 祭日(さいじつ):皇室の重要な祭祀が行われる日。皇祖皇宗(歴代の天皇や祖先神)を祀る宗教的な意味合いが強い日です。(例:元始祭、春季皇霊祭、新嘗祭など)
- 祝日(しゅくじつ):国家的な慶事を祝う日。明るく華やかなお祝いムードが強い日です。(例:紀元節、天長節)
四大節は、これらの中でも「別格」として扱われていた4つの日です。
ここで面白いのは、四大節の中には「祝日」的性格が強いもの(紀元節、天長節、明治節)と、「祭日」的性格が強いもの(四方拝)が混在していることです。
しかし、四大節と総称されることで、これらは全て「国民全員で皇室の行事に合わせてお祝いや祈りをする日」として統合されていました。
例えば、祭日には学校も休みになり、家庭でも国旗を掲揚して遥拝(皇居の方角に向かって拝むこと)が行われました。
つまり、当時の人々にとってカレンダーの赤文字(休日)は、単なる「労働からの解放」ではなく、「神聖な時間への参加」を意味していたのです。
この感覚は、現代の私たちが「ゴールデンウィークだ!旅行に行こう!」と考えるのとは、少し(というかかなり)違ったものであったことは間違いありません。
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四方拝や紀元節など各儀式の内容

では、それぞれの日に具体的にどんなことが行われていたのでしょうか。詳しく見ていくと、日本独自の思想や神話が見えてきます。
教科書には載っていないようなディープな儀式の内容にも触れていきましょう。
四方拝(しほうはい):国家鎮護の秘儀
1月1日の早朝、まだ夜も明けやらぬ午前5時半頃に行われる儀式です。これは単なる新年の挨拶ではありません。
天皇陛下が、普段お住まいの宮殿ではなく「神嘉殿」という特別な場所の庭(あるいは清涼殿の東庭)に出られ、「属星(ぞくしょう)」というご自身の運命を司る星、北斗七星、天地四方、そして歴代天皇の山陵(お墓)や伊勢神宮の方角を拝みます。
この儀式の最大の特徴は、道教的な星辰信仰の影響を強く受けている点です。
天皇陛下は「賊冦之中過(ぞくこうしちゅうか)…」といった独特の呪文のような言葉を唱え、「国家の災い、民の苦しみが、すべてわが身を通って消え去りますように」と祈ります。
つまり、天皇陛下が自ら「フィルター」となって世の中の厄災を引き受けるという、壮絶な自己犠牲の祈りなのです。
これを元旦の最初の公務として行うことに、天皇という存在の重みが表れています。
紀元節(きげんせつ):建国の物語の共有
2月11日は、初代天皇である神武天皇が奈良県の橿原(かしはら)の宮で即位したとされる日を祝うものです。
『日本書紀』に記された「辛酉年春正月庚辰朔」という日付を、明治時代の暦学者が太陽暦(グレゴリオ暦)に換算して「紀元前660年2月11日」と定めました。
戦前の紀元節では、全国の学校で祝賀式典が行われました。特に有名だったのが「紀元節」の唱歌です。
「雲に聳(そび)ゆる高千穂の…」という歌詞は、多くの年配の方なら今でも口ずさめるほど深く浸透していました。
この歌を通じて、子供たちは「日本は神代の昔から続く長い歴史を持つ国なんだ」というアイデンティティを自然と育んでいたのです。
また、この日には橿原神宮へ勅使が派遣され、厳粛な祭儀が行われました。
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天長節(てんちょうせつ):永遠を願う日
今の天皇誕生日です。「天長」という言葉は、中国の古典『老子』にある「天長地久(天は長く地は久し)」という言葉から採用されました。
対となる皇后陛下の誕生日は「地久節(ちきゅうせつ)」と呼ばれます。これには「天皇の治世が、天地と同じように永遠に続きますように」という願いが込められています。
天長節には、宮中で「天長節観劇」などの華やかな宴が催されることもあり、諸外国の外交官も招かれて盛大に祝われました。
また、一般庶民にとっても、天長節は「旗日(はたび)」として日の丸を掲げ、お祝いムードに包まれる特別な一日でした。
テスト対策用の四大節の語呂合わせ

日本史のテストなどで「四大節を答えよ」という問題が出ると、漢字や日付がごちゃごちゃになってしまうこともありますよね。
そこで、試験対策として覚えやすい語呂合わせを考えてみました。単なる暗記ではなく、意味とセットで覚えるのがコツです。
おすすめの語呂合わせ
「し(四方拝)き(紀元節)て(天長節)め(明治節)て祝う四大節」
「四季(しき)攻め(てめ)て」のような響きで覚えると、頭に残りやすいかもしれません。
順番通りに「四・紀・天・明」の頭文字を取っています。 また、日付に関しても、以下のイメージでセット暗記してしまいましょう。
- 四方拝:1月1日 → 一年の最初だから「1・1」で四方拝。
- 紀元節:2月11日 → 日本の「2」本の足で立つ「11(いい)」国作り、で2月11日。
- 明治節:11月3日 → 「いい(11)お産(3)」で明治という新しい時代が生まれた、とこじつけましょう。
ちなみに、天長節の日付は天皇によって変わりますが、明治天皇は11月3日、大正天皇は8月31日、昭和天皇は4月29日です。
「明治は文化の日、昭和はゴールデンウィークの初日」と現代のカレンダーとリンクさせて覚えるのが一番確実ですよ。
ちなみに平成の天皇は12月23日、令和の天皇は2月23日です
戦前の四大節の歴史と廃止された理由
ここからは少し踏み込んで、四大節がたどった歴史的な運命についてお話しします。
なぜ「明治節」だけ後からできたのか、なぜ戦後に廃止されてしまったのか。その背景には、時代の大きな変化や政治的な事情が隠されていました。
このセクションを読むことで、単なる用語の暗記を超えた「生きた歴史」が見えてくるはずです。
明治節が制定された背景や経緯

実は、明治、大正、昭和と時代が進む中で、四大節の構成はずっと同じだったわけではありません。特に「明治節(11月3日)」が四大節に加わったのは、昭和に入ってからのことなんです。
もともと11月3日は明治天皇の誕生日(天長節)として盛大に祝われていましたが、1912年に明治天皇が崩御されると、当然ながら天長節は大正天皇の誕生日(8月31日)に移りました。
これにより、11月3日は平日となってしまったのです。
しかし、当時の国民の間では「明治という近代化を成し遂げた偉大な時代を忘れたくない」「日清・日露戦争を勝利に導いた明治天皇の遺徳を称えたい」という声が非常に根強く残っていました。
こうした国民感情を背景に、とある政治団体や有志による請願運動が活発化しました。
署名活動なども行われ、国会でも議論が重ねられた結果、1927年(昭和2年)に改めて「明治節」として祝日に制定されたのです。
これは、国が上から一方的に押し付けた祝日というより、国民の「明治時代への憧れや懐かしさ(ノスタルジー)」が後押しして復活させた祝日だったと言えるかもしれません。
この明治節の制定により、それまでの「三大節(四方拝・紀元節・天長節)」に一つ加わり、私たちが知る「四大節」が完成しました。
ちなみに、この日は明治神宮の大祭の日でもあり、多くの参拝客で賑わう、まさに国民的祝祭日としての地位を確立していきました。
大正時代の天長節に関する豆知識

ここで一つ、歴史好きの方にはたまらない「トリビア」をご紹介しましょう。大正時代の天長節(天皇誕生日)には、ちょっと不思議なことが起きていました。
大正天皇のお誕生日は8月31日でした。しかし、8月末といえば残暑が厳しく、時には台風も襲来する時期です。
現代のようにエアコンが完備されているわけではない時代、炎天下でモーニングコートや軍服を着て式典を行ったり、学校で子供たちを集めて儀式をしたりするのは、健康面でも運営面でも非常に大変ですよね。
大正時代の「二重」の天長節
そこで政府は、実際の誕生日である8月31日はそのまま休日の「天長節」としながらも、気候が良くなり涼しくなった10月31日を別に「天長節祝日(てんちょうせつしゅくじつ)」と定め、公式なお祝いの儀式(拝賀や宴会など)はこちらで行うことにしたのです。
つまり、大正時代には「誕生日の休日(8/31)」と「お祝いパーティーの日(10/31)」が別々に存在していたわけです。
「本当の誕生日」と「お祝いをする日」を分けるという、なんとも実用的な判断ですよね。
これは、儀式を形式的に行うだけでなく、参加者の負担を減らし、より良い環境で祝いたいという配慮があった証拠でもあります。
もしテストやクイズで「大正時代の天長節の祝賀はいつ行われたか?」なんてマニアックな問題が出たら、「10月31日」と答えて周囲を驚かせてみてください。
GHQにより四大節が廃止された理由

そんな国民に親しまれた四大節ですが、1945年の敗戦とその後のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による占領政策によって、大きな転換点を迎えます。
GHQは、日本の軍国主義や超国家主義の根源が「国家神道」にあると分析し、これを解体しようとしました。
1945年12月に発出された、いわゆる「神道指令」がその決定打となります。
四大節は、宮中祭祀(天皇家の神道の儀式)と密接に結びついており、国民統合の精神的支柱となっていたため、GHQの目には「軍国主義的な精神を養う危険な装置」として映りました。
GHQ側は、これらの祝日を全面的に廃止し、皇室と関係のない新しい祝日を作るよう日本政府に圧力をかけました。
しかし、日本政府側も黙ってはいません。「新年を祝うことや、建国を記念することは、どこの国でも行っている普遍的なことだ」と粘り強く交渉しました。
その結果、1948年(昭和23年)に新しい「国民の祝日に関する法律」が施行され、法的な意味での「四大節」という名称は消滅しました。
しかし、完全な廃止ではなく、趣旨や名称を変更することで、日付そのものは維持されることになったのです。
法改正による変化のポイント
- 四方拝 → 元日(「年のはじめを祝う」日へ変更)
- 紀元節 → 廃止(※後に「建国記念の日」として復活)
- 天長節 → 天皇誕生日(名称変更)
- 明治節 → 文化の日(「自由と平和を愛し、文化をすすめる」日へ変更)
この変更は、休日の根拠を「天皇の神事」から「国民の生活や文化的価値」へと切り替えさせる、戦後民主主義への移行を象徴する出来事でした。
しかし、名称が変わっても日付が残ったことで、伝統的な季節感は維持されることになったのです。
現在も神社で続く四大節の祭祀

法律上はなくなってしまった四大節ですが、では完全に消滅してしまったのでしょうか?実はそうではありません。
法律の世界とは別の場所、つまり「宗教的な世界」では、四大節は今も生き続けています。
神社の世界では、今でもかつての四大節にあたる日に、厳粛な祭祀が行われています。
全国の神社を包括する「神社本庁」が定める「神社祭祀規程」というルールブックにおいて、これらは現在でも重要な「中祭(ちゅうさい)」として位置づけられ、欠かすことのできないお祭りとして継承されているのです。
- 歳旦祭(さいたんさい):1月1日(旧四方拝)。新しい年の始まりを祝い、皇室の弥栄と国家の安泰を祈ります。
- 紀元祭(きげんさい):2月11日(旧紀元節)。神武天皇の即位を記念し、日本の建国を祝います。
- 天長祭(てんちょうさい):天皇誕生日。現在の天皇陛下のお誕生日をお祝いし、ご長寿を祈願します。
- 明治祭(めいじさい):11月3日(旧明治節)。明治天皇の大業を称え、皇室の繁栄を祈ります。
私たちが「今日は祝日だ、ラッキー!」と家でのんびりしたり買い物に行ったりしているその裏側で、地元の神社や皇居の奥深くでは、神職の方々が白衣と袴に身を包み、昔と変わらず国家の安泰や世界の平和を祈る儀式を続けているのです。
こうした「見えない継続」があるからこそ、日本の伝統文化は途切れることなく現代まで続いているのかもしれません。
現代の祝日へ継承された四大節

戦後の改革で名称は変わりましたが、四大節の日付の多くは現代の祝日として残りました。特に興味深いのは11月3日の「文化の日」に隠されたエピソードです。
表向きの理由は、1946年の同日に「日本国憲法」が公布されたことを記念して、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」日とされました。
GHQとしても、新しい憲法の記念日であれば文句はありません。しかし、当時の日本政府の担当者たちが、意図的に憲法の公布日を11月3日に合わせたのではないか、という説が根強くあります。
つまり、「憲法公布日」という新しい、そしてGHQが喜ぶ大義名分を掲げることで、明治天皇の誕生日であるこの日を祝日として死守しようとしたのです。
もしこれが事実だとすれば、当時の官僚たちのしたたかな外交術には驚かされますね。結果として、私たちは今でも11月3日を休むことができ、文化的な行事に参加することができるわけです。
当時の人たちはすごいわね。必死に明治節を残そうとしてくれたのを想像すると泣いちゃいそう
なお、各祝日の由来や詳細については、内閣府の公式ページでも解説されています。より詳しく知りたい方は、こちらも参考にしてみてください。
(出典:内閣府『各「国民の祝日」について』)
日本の伝統文化である四大節のまとめ

今回は「四大節」について、その読み方から歴史、そして現代へのつながりまでかなり詳しく解説してきました。最後に、この記事の要点を振り返ってみましょう。
四大節についてのまとめ
- 四大節(しだいせつ)とは、戦前の四方拝・紀元節・天長節・明治節の4つの最重要祝祭日のこと。
- 1948年にGHQの影響で法的には廃止されたが、現在は元日、建国記念の日、文化の日などに形を変えて日付が残っている。
- 神社では現在も、これらに対応する重要な祭祀(歳旦祭、紀元祭など)が厳粛に続けられている。
- 単なる休日ではなく、日本の歴史、神話、そして平和への祈りが込められた特別な日である。
「四大節」という言葉自体は日常生活であまり使われなくなりましたが、私たちが何気なく過ごしている祝日の奥底には、こうした深い歴史や先人たちの祈りが脈々と流れています。
次に祝日を迎えるときは、「あ、今日は昔の四大節の日なんだな」と思い出してみてください。
きっと、いつもとは少し違った、厳かな気分で一日を過ごせるかなと思います。神社にお参りに行ってみるのも、良い過ごし方かもしれませんね。